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完璧について再び [村上春樹]

「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」

という言葉は、もちろん、村上春樹さんのデビュー
『風の歌を聴け』の書き出しである。
ここから始まる冒頭の1章は、特別にかっこいいので、
すらすらと暗誦できる人もいることだろう。

「僕がその本当の意味を理解できたのはずっと後のことだったが、
 少なくともそれをある種の慰めとしてとることも可能であった。
 完璧な文章なんて存在しない、と。」

という文章が、先の言葉に続く。
僕がずっと後に理解できた「本当の意味」とは何だろうか?

この「本当の意味」を求めるために、
「完璧な文章なんて存在しない」という慰めの言葉を受けた1章全体を、
かっこいい村上さんの文章を台無しにしてしまうけれど、
あえて要約してみる。

 完璧な文章は書けないけれど、
 今のベストを尽くして小説を書くことにした。
 うまくいけば、何年か何十年先には、
 美しい言葉で文章が書ける。

ここでのポイントは、完璧な文章を書くことに、
希望があるということだ。

まわりくどい言い方だが、
「完璧な文章などといったものは存在しない。」
という絶望も存在しないのだ。

文章を書くことに対する希望、
あるいは励ましといってもいいかも知れない。
これが、この言葉の「本当の意味」だったと思う。

村上春樹さんの小説は、
文章を書くことについての文章を通して、
同時に、生き方についても語っている。

村上さんは、デビュー作から30年、
マラソンを走るように、多くの文章を書き続けた。
小説を書き、せっせと翻訳をし、エッセイを書き、工場見学をし、
紀行文を書き、音楽について書き、取材してノンフィクションを書き、
読者との大量のメール交換をし、イスラエルの大統領の前で講演もした。
そして最新作『1Q84』を書いた。(未だ書いている?)

『風の歌を聴け』の書き出しから、この長い道のりを経て、
『1Q84』までたどり着いたことは、一読者としても感慨深いものがある。

最近、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』(新訳版)
(ハヤカワepi文庫)を読んだ。
この小説は、ビック・ブラザーという全体主義に
支配される完璧な絶望で終わると、長い間思っていた。
しかし、小説読了後、
トマス・ピンチョン氏によるこの本の解説を読んで、
成る程とうなった。
この小説には、見過ごしかねない様なさりげない形で、
しかし、はっきりと希望が語られていたのである。
完璧な絶望は存在しない、と。
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『1Q84』における背景音楽としての『ビリー・ジーン』 [村上春樹]

村上春樹さんの『1Q84』では、
冒頭のヤナーチェックの『シンフォニエッタ』に続いて、
青豆が別世界に入ろうとする、まさにその時に、
マイケル・ジャクソンの『ビリー・ジーン』が流れる。

1984年は、マイケル(当時25歳)の絶頂期であり、
この曲が流れることは、
当時を思い出させるのに十分な効果をあげているが、
この本を読み進めていくうちに、
それだけではないということが分かる。

この大事な瞬間にマイケルのこの曲が挿入されていることに、
この作品の底知れない深みを感じる。

(1) 『ビリー・ジーン』の歌詞とのつながり
Be careful what you do
Because the lie becomes the truth
(することに気をつけて。 嘘が本当になるから。)

この一節は、『IQ84』のテーマとも良く合致している。
なお、扉のペーパー・ムーンの歌詞からの抜粋も同様のテーマが選ばれている。
そういえば、映画『ペーパー・ムーン』に主演していた
テイタム・オニール は、マイケルとも交際していたことがあるらしい。
また、お父さんのライアン・オニールの、『ある愛の詩』は、
春樹さんの前作『アフターダーク』にも、
面白おかしく扱われていましたね。

Billie Jean is not my lover
She's just a girl who claims that I am the one
But the kid is not my son
(この子は、僕の息子じゃない。)

繰り返されるここの歌詞は、2章の天吾君の登場シーンに、
ダイレクトにつながっていきます。

また『1Q84』の中で、この音楽が流れる場所にトラの看板がありますが、
『ビリー・ジーン』のビデオの中の街のセットにも、
意味深な看板とトラの子がでてきました。

(2) サウンド・オブ・ミュージック
僕は、この映画が好きなので、贔屓目で見ているからか、
春樹さんの小説で、映画『サウンド・オブ・ミュージック』が
でてくると、つい喜んでしまう。
ちょっとした役ですが、『IQ84』にも出てきたので嬉しかった。

さて、『ラトーヤ・ジャクソンが語るファミリーの真実』
という、ちょっといわくありげな本(以降、ラトーヤの本と呼びます。)
を読んでいたら、マイケルの話として、
「五歳のときには、幼稚園の発表会で<サウンド・オブ・ミュージック>
の"クライム・エブリィマウンテン"を歌い、生まれて初めての
全員総立ちの大喝采を経験している。」
とある。ジャクソン・ファミリーは、
悲劇のトラップ一家だったと考えることもできる。

(3) 宗教、父親、暴力
マイケルが入っていた宗教は、『IQ84』の証人会のモデルの団体
と考えられるが、これらについて書くだけの情報を僕は、持たない。
ただ、ラトーヤ本に出てくる、マイケルのセリフが心に残ったので
紹介する。

「わかるさ。だからこそ、ぼくは<バッド>を書いたんだ。
だからこそ、ぼくはあのビデオや
<ザ・ウェー・ユー・メーク・ミー・フィール>の中で
あんなに身をくねらせたり、自分の体をひっつかんだりしているんだ。
つまり、それはジョーゼフ(父親)と宗教への仕返しで、
ぼくは自分のしたいことができ、
彼らはぼくをコンロールできないことを知らせてあるんだ。」

マイケルの変化とその痛みの一端が分かるような気がする。
ラトーヤは、本の中で、以下のように分析している。

マイケル・ジャクソンは、(省略)、
非虐待児のファンタジーに変身することにより、いつも苦痛を逃れるのである。
でもあたしが言いたいのは、マイケルがその作品の中で、
理想主義的な社会改良家として演じている場面が多いことである。
どれほど賞賛すべきことであっても彼の目的は必ず、
『スムース・クリミナル』と同様に、権力や暴力を通じて達成されるのである。

この辺りの記述も、『IQ84』と合わせて、考えさせられることが多い。

(4) (小休止)音楽を記録する媒体のちょっとした歴史
リトルピープルの声を聞いていたというエジソンが、
改良型蓄音機を発明し、
マイケル・ジャクソンは、
音楽をデジタル信号としたCDの普及に一役を買った。
だから何? と言われそうですが。。

(5) キング・オブ・ポップ 体中の痛み
正直な所、マイケルを、キング・オブ・ポップと呼ぶことには、
多少の違和感を感じるが、
マイケルをキングと扱うことは、
『IQ84』の文脈の中での王の扱いと、共通点が多い。

6月の終わりに、
マイケルの突然の死という報道が世界をめぐる。

ぼくらは、体中を痛みで蝕まれた王が針により殺される、
という『IQ84』の黙示録的な暗示が、
また一つ現実化したことを知る。

『ビリー・ジーン』の歌詞が、世界に流れる。

Be careful what you do
Because the lie becomes the truth

Billie Jean is not my lover
She's just a girl who claims that I am the one
But the kid is not my son

『1Q84』の月並みな考察 [村上春樹]

高校生の頃だったか、
テレビで放送されていた『ウホッホ探検隊』という映画
冒険映画かと思って見たら、離婚を扱ったホームドラマだった。
ストーリーは良く覚えていないけれど、印象的だったのは、
「月」の描写が、シーンの合間に出てくる点だった。

何故、月の描写がでてくるのだろうと思って、気づいたのが、
ドラマの中の時間経過を月の満ち欠けで表現しているのではないか、
ということだった。
それからというもの、テレビや映画で、
月が出てくると、ついつい時間について思いを巡らせる。

村上春樹さんの『1Q84』の中でも
「月」の描写が、興味深い。
(月は相変わらず寡黙だった。しかしもう孤独ではない。
なんて、フレーズは、掛け値なくかっこいいです。)

1984年の月齢カレンダーと照合しながら、
『1Q84』を読んでみて、興味深いことが分かったので、
ちょっとばかり紹介してみます。
(理屈抜きで楽しめる程は、面白いものではないかも知れませんが。)


【青豆が見ている月】
上巻第15章
 ○月が二つきれいに並んで浮かんでいることに気づく。

上巻第17章
 ○翌日の夜、月はやはり二つのままだった。
 ○その夜も月は二つだった。
  どちらも満月から二日ぶん欠けている。

 その翌日、老婦人との会話で、
 例の男を別の世界に移してから、
 「あと四日でちょうど二ヶ月になります。」とある。

さて、月齢カレンダーで調べると、
1984年6月の満月は、6月13日となる。
満月から二日ぶん欠けた日は、6月11日、
となると、老婦人と会話した日は、翌日の6月12日。
すると、「例の男を別の世界に移した日」は、4日後の2ヶ月前で、
4月16日となる。

しかし、「例の男を別の世界に移した日」は、
第1章では、「4月を迎えたばかりの冷ややかな風が」
とあり、4月の始めなの日なので、4月16日とは矛盾する。

1Q84年の世界では、つくりものの様に、
月はいつも、同じ形をしている可能性がある。
見かけの姿にだまされてはいけない。

なお、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』は、
四月の晴れた寒い日から始まります。

【天吾が10歳の時に見た月】
上巻第12章に、以下の描写があります。
 ○四年生
 ○よく晴れた十二月始めの午後

下巻18章には、以下の描写があります。
 ○二十年も前
 ○四分の三の大きさの月だ。
 ○十二月の午後三時半の空に浮かんだ月

さて、この大きさと一致する日は、
月齢カレンダーで調べると、
1964年12月13日か14日午後3時30分、
月齢9.1か10.1の月だと推測します。
十二月始めという記述が、少し正確ではないですが、
これは、記憶は正確では無いということを
暗示しているのかもしれないですね。
(考えすぎか。)


【天吾が滑り台の上から見た月】
下巻18章には、以下の描写があります。

 ○南西の方向に月の姿を見つけた。
 ○月は二階建ての古い一軒家の屋根の上に浮かんでいた。
 ○月は四分の三の大きさだった。
 ○二十年前の月と同じだ。(同じ大きさ、同じかたち)

さらに、天吾が、居酒屋「麦頭」に立ち寄ったのが、
七時から八時にかけての時間、ということなので、
月を見たのは八時頃であると推測されます。
(どうでもいいことが、このへんな店の名前「麦頭」は、
青豆さんと字面が似ている。。)

さて、この大きさと位置に、一致する日は、
月齢カレンダーで調べると、
1984年9月4日午後8時頃、
高度28度、方位187度(南南西)
月齢8.3の月だと推測します。

月は四分の三よりは、こころもち細身ですが、
もっと四分の三ぽい、9月6日(月齢10.3)になると、
残念なことに、月は、この時間まだ南東の方向にいる。
従って、ここでは、南西に月が出ている9月4日としました。
(春樹さんは、南南西(羊)の方角に、こだわりがあるようなので。)

もっとも、月が2つになれば、
従来の計算とは、ことなる計算が必要となりますが。

月齢カレンダーは、以下を参考にしました。
http://koyomi.vis.ne.jp/directjp.cgi?http://koyomi.vis.ne.jp/moonage.htm


追記;
『1Q84』は、総合小説なので、複合的な読み方ができますが、
その骨子の一つは、1984年という年に、主人公である天吾が、
物語を書くための啓示を得、長編小説を書き始めるという小説である。

ひょっとすると、青豆さんの章は、天吾が書いた長編小説である可能性もあり、
最終的には、天吾自身も(物語の世界で)生きていく決意をします。
(といいきってしまうと、少し正確ではないとも思いますが。)

さて、村上春樹さん自身も、
1984年には、小人がでてくるちょっと怖い短編『踊る小人』を発表し、
1984年の夏からは、交互に二つの世界を描く長編小説
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を執筆しはじめます。
そして、その中で出てくる、やみくろの存在は、後に
アンダーグラウンド』を執筆する動機の一つともなっていきます。
そして、『アンダーグラウンド』執筆の取材や執筆の過程を通して、
考えたこと、そして培っていく技術は、
さらに『1Q84』の執筆へとつながっていきます。

なお、多分1985年に出版されているので、1984年から製作を開始していた
と思われる『映画をめぐる冒険』(川本三郎さんとの共著)は、
『1Q84』の小松さんのモデルの1人とも考えられる安原 顯さんが、
プロデューサとなっています。。

こうして俯瞰してみると、
『1Q84』は、村上ワールド自身を包んでしまうような
柄の大きい作品であると感じます。

追記2;
「空気さなぎ」という文字の中には、月の模様の様に、
「うさぎ」という文字が隠れているのが、いささか気になる。
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チェーホフの観点 [村上春樹]

この1週間、今まで読んだことのなかった、
チェーホフを集中して読み、遠く昔のロシアの情景に思いをはせました。

僕が読んだのは、
小説では、『犬を連れた奥さん』と『イオーヌィチ』と『可愛い女』。
戯曲では、『ワーニャ伯父さん』と『桜の園』です。

さらに、背景や、他の作品の概要を知るために、
阿刀田高さんの『チェーホフを楽しむために』を読みました。

ときにコミカルに、ときに共感を感じる
登場人物や情景が、今もあざやかに目に浮かびます。

さて、村上春樹さんの『1Q84』には、チェーホフの言葉として、
「物語の中に拳銃が出てきたら、それは発射されなくてはならない」
という予言めいた言葉がでてきます。

チェーホフの作品において、その言葉は、
文字通りの意味で、実践されているのか?

ということは、気になった人もいますよね。
これを糸口として、チェーホフを読んで確かめてみるのが、
得ることの多い、まっとうな方法なのだということを、
一言申しあげた上で、
得られた、驚くべき事実を
(本当は驚くほどでもないですが)
ここに整理してみるといたしましょう。

【チェーホフ四大戯曲における拳銃の発射について】
(1)かもめ
 チェーホフの観点に基づき、拳銃は発射されています。

(2)ワーニャ伯父さん
 チェーホフの観点に基づき、拳銃は発射されています。
 しかし、この拳銃は、何故か、人にあたらない魔法の銃です。
 (拳銃は、発射されたからといって、あたるとは限りません。。)

(3)三人姉妹
 拳銃は、舞台には現れず、舞台裏で使われた模様。
 チェーホフの世界では、
 物語の表舞台で、拳銃はあらわれなくても、
 発射されることはあるようです。

(4)桜の園
 物語の中で、拳銃は小道具として出てくるが、発射されない!
 

さて、こうして整理してみると、『1Q84』の青豆さんには、
「チェーホフの小説作法の裏をかけ」の代わりに、
「チェーホフの観点では、物語には、いろいろな可能性があり、
物語の意味を一つに決める必要はないのだよ」と、
教えたくなりました。

吸引力が強い本と頼もしさ [村上春樹]

1Q84-3.jpg
ちょっと仕事がたてこみ、
また、人前でスピーチをする機会がありました。
スピーチといっても、どこかの大統領の前でするわけでもなく、
ささやかな場ではありましたが、
それでも、緊張しました。
何とか、言いたかったことは伝わった様で、
まぁ何とか一段落。

忙しい時というのは、昔から、読書意欲が向上します。
頭が活性化するのか、あるいは、現実逃避か。

1Q84も読みました。
読み終わった後、本を閉じて、
周りの景色を見ると、世界がちょっと変ったんじゃないかと
怪しく思えるぐらい、吸引力が強い本でした。

今日、大きな本屋で、また本を物色していたら、
水商売風の女性、大学生ぐらいの若い2人連れの男子、
初老の夫婦なんかが、入れ替わり、村上コーナー
の強い引力に、引っ張られるように訪れては、
きょろきょろと探して、無いなぁ、売り切れか、
がくっりだ、という感じで、通りすぎていきました。
凄いことになっています。

1Q84を読んで、(正確には、地球のはぐれ方の
時からずっときになってはいたのですが)
チェーホフって面白そうだなぁと思って、
今さらですが、チェーホフを読み始めています。
戯曲はちょっと、難しそうなので後回しにして、
とっつきやすそうな、「可愛い女」「犬を連れた奥さん
を岩波文庫で読みました。

この小説は、110年も前にクリミア半島のヤルタ
で書かれたもので、岩波文庫の神西清さんの翻訳
太平洋戦争前の1940年なのに、
結構、文章のリズムや、終わり方の余韻が上手くて、
あまりのクォリティの高さに驚きました。
(文豪にむかって、不躾ですね。)

中高生の時には、読んでもこの良さは分からなかっただろうなぁ。
今、この年になって、しみじみ分かる面白さ。
新しい小説のあり方の芽吹きが感じられます。

この小説の書き方や、その姿勢みたいなものが、
色々な人を経由して、村上春樹さんに、そして、
新しい世代へと受け渡されていっていると思うと、
なかなかに頼もしいです。

2009_0607色々0093-2.jpg


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偶然は必然? [村上春樹]

村上春樹さんの初夏刊行予定の
最新長編小説タイトルが公開されました。それは、

1Q84
ichi-kew-hachi-yon

http://www.shinchosha.co.jp/murakami/
(前のスターウォーズのオープニングの様な予告から
くるくる回転する予告に変りました。)

僕は、ブログで記事を書く時、
どこかと繋がっている記事が書けると良いなぁと
どこかに思いながら書いているのですが、
前回、村上さんのことを取り上げた際に、
アップル社のCM『1984』を 一緒に取り上げていたので、
このタイトルに少し驚きました。

エルサレム賞でのスピーチは、きっと、
村上さんの最新長編の世界へ繋がっているのでしょう。
一つのメタファーとして。

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メタファー [村上春樹]




 「"A"というメタファー(暗喩)について伝えたい。
  これは、時としては、"B"を示す。

  しかし、それが全てではない。
  もっと深い意味がある。
  それは、"C"だ。 」

といった論法について、今週、ちょっと考えてみました。

この論法は、多くの場合は、"C"を伝えるのに使われる。
きっと国語のテストなんかで、「作者が伝えたいことは何ですか?」
という選択問題があったら、"C"が正解ということになるんだと思う。
ぼくは国語の先生ではないので、適当ですが。

さて話を戻して、時としては、この論法は、特に会話なんかで、
相手に対して気兼ねなく話せる"C"を用いて、
相手に対して正面きっては言いにくい"B"を伝えることにも
使われているような気がする。
Cをカモフラージュにして、こそっと"B"を伝えておくというやり方ですね。

"B"は会話の中では聞き流されるだろうけれど、
相手の潜在意識の中にとどまることを期待して。

しかし、それだけでは無いような気もする。
やっぱり、一番伝えたいのは、"A"のメタファー自体とも考えられるし、
あるいは、"A","B","C"の総体であるとも考えられる。

こうして、国語のテストでは、悩むことはしばしばだったし、
今でも相変わらず、文章を読んでいて、考え込んでしまうことも度々だ。

さて、この論法のことをとりあげたのは、
気づいた人もいると思うけれど、
「エルサレム賞」受賞式での村上春樹さんが行ったスピーチが、
この論法を使っていたためです。
(もちろん、このスピーチの構造は、こんなに単純化はできなくて、
もっと要素と、複雑な構造をもっていますが。)

このスピーチが凄いなぁと思ったことの一つは、
報道側の都合によって、"A","B","C"の三つがばらばらにされて、
各々のみが伝わろうとも、
どれもが、一つの個として、確かに相手に伝わるであろうし、
それは、一つの真実の各々の側面に過ぎないので、
きっと、伝えたかったことの本質は、届くのであろうということです。

このスピーチの詳細は、
以下のカイエさんの所を起点に見たり読んだりできます。
http://lapis.blog.so-net.ne.jp/2009-02-18-1

冒頭の動画は、25年前のAppleのCMです。
今回のスピーチと通じるものを感じたので。

早く初夏にならないかなぁ。 [村上春樹]

昨年10月に、書き上げたと聞いてから、
ずうっと心待ちにしていた、
村上春樹さんの最新長編小説の案内が
ついに、出ました!
『初夏刊行決定!』だそうです。

映画の予告編のような案内を見て、
新しい村上ワールドについて、
色々と思いを巡らせてしまいます。
http://www.shinchosha.co.jp/murakami/

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グッドバイ ティファニーズ [村上春樹]

2008_0316マラソン、動物園0175-2.jpg
『グレート・ギャツビー』
ロング・グッドバイ
『ティファニーで朝食を』と、この1年半に立て続けて刊行された、村上春樹さんが翻訳した3つの作品を読み進めて来て、その見事な物語の世界に深くため息をついた。

これらの物語について、洒脱に語られることは無数にあると思うが、
ここでは、個人的に、ちょっと気になったことを2つ選んで書こうと思う。

1つは、これらの物語の水面下で綿々と受け継がれていく、
人物の姿をしてあらわされた、イノセントな心のことだ。

『ロング・グッドバイ』の(とても充実した)訳者あとがきでは、
『ロング・グッドバイ』と『グレート・ギャツビー』との重なり合いについての細かな検証が加えられている。ジェイ・ギャツビーが『ロング・グッドバイ』テリーに相当することが考察されている。(詳しくはそのあとがきを読んで見て下さい。)
『ティファニーで朝食を』のあとがきには、残念ながら、これらの先行する作品とのつながりについての考察は書かれてはいない。
しかし、『ロング・グッドバイ』の私立探偵マーロウが友人のテリーに言う言葉、
「君はずっと前にここから消えてしまったんだ。君は素敵な服を着て、素敵な香水をつけて、まるで五十ドルの娼婦みたいにエレガントだよ」
から、『ティファニーで朝食を』の素敵な主人公ホリー・ゴライトリの愛らしい姿が思い浮かべることは、難しくはないと思う。どうだろうか?

2つ目は、戦争の影のことだ。これらの物語の遠景にはいつも戦争の影がある。
ギャツビーもテリーも、否応なしに、戦争により人生の歯車を狂わされていく。
また、『ティファニーで朝食を』は、まさしく、戦争の最中の話であるし、戦争はホリーから大事な人を奪っていく。(ちなみに、映画では何故か、この大事な人は交通事故で亡くなったことに変更されている。。)
さらに、戦争の影に加えて、もう一つ、1930年代半ばのアメリカ南部の旱魃(かんばつ)が、ホリーの過去を暗い雲で覆っている。

この旱魃については、『意味がなければスイングはない』(村上春樹)のウディ・ガスリーの章で僕は知った。故郷を捨てざるを得なかった貧しい難民の数は百万近くにのぼったと言う。興味がある方は一読をお勧めする。

戦争や貧しさからも、さよならをする方法はまだみつかっていない。
だけど、ギャツビーと、テリーと、ホリーが、きぼうの光に溢れたティファニー色の空の上にいて、地上の灯りを眺めながら、楽しくギムレットなんかを飲んでいる姿を、想像することはできる。

写真は、今日動物園で撮った、カルフォルニア・アシカです。

NYのティファニーの本店はここです。僕は行ったことはありませんが。

大きな地図で見る

また、映画『ティファニーで朝食を』の舞台はこの辺りです。

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月並みな雑談 [村上春樹]

村上春樹さんの『意味がなければスイングはない』の
表紙は、ちょっとひっかかるものがある。

意味がなければスイングはない

本の帯びには、こんな素敵な文章がのっている。
 月が消え、恋人に去られ、犬に笑われても、
 なにがあろうと音楽だけは
 なくすわけにはいかない。




この文章の言葉遊びは楽しい。
"消える"という字には、"月"が隠れているし、
"笑う"という字も、俗説では竹かごをかぶった犬の姿だ。
"恋人に去られ"だって、言葉遊びかもしれないと思いたくなる。

しかし、言葉遊びだけでなく、その描かれている情景は、
一つの小説世界を彷彿させはしないだろうか?
例えば、『スプートニクの恋人』の様な。

 『スプートニクの恋人』といえば、
 その登場人物「すみれ」の名前について、発見したことがある。
 『すみれ』の学名のmandshurica は、
 『ねじまき鳥クロニクル』でも舞台となった『満州』という意味があるそうだ。

『意味がなければスイングはない』の表紙の画は、
Artemis Recoedsの『The Bach Guild』シリーズの
CDジャケットのイラストが使われている。
それは、多分、このイラストだと思うけど、色が違う。

『意味がなければスイングはない』の表紙には、
青色系の中間色が使われている。
バイオレットhttp://www.colordic.org/colorsample/4174.html
菫色(すみれいろ http://www.colordic.org/colorsample/2047.html)
をベースに明度と彩度を変えていくと、それらしい色となる。 

なお、Artemis Recoedsの中に使われている"アルテミス"は、
ギリシア神話に登場する女神で、
セレーネと同じく月の女神として扱われることがあるらしい。

来月、種子島スペースセンターから打ち上げられる月周回衛星セレーネは、
「かぐや」という名前になった。
これにちなんで、月にまつわる詩が紹介されている。
http://www.jaxa.jp/countdown/f13/special/poetry_j.html

その第1回は、
Fly Me to the Moon(宇多田ヒカルも歌っているね)
と並んで、月夜の浜辺(中原中也)が紹介されている。

 月夜の晩に、ボタンが一つ
 波打際に、落ちてゐた。

で始まる詩で、教科書に出てきて好きだった詩だ。
先日、NHKで、「言葉で奏でる音楽~吉田秀和の軌跡~」
を見ていたら、音楽評論家の吉田秀和さんは、
中原中也にフランス語を習ったと言っていた。
吉田秀和さんは、中原中也と同時代の人だったんですね。
そして、小林秀雄さんのことなんかも、話していました。
歴史が脈々と繋がっていることに驚きました。

月にまつわる歌といえば、小沢健二さんがポンキッキーズで
歌っていた『オナラで月まで行けたらいいな』という、
思わず微笑みが浮かぶような曲があった。
ガスを放出して、その反発力で飛ぶというのが、ロケットの推進原理
なので、言いえて妙な歌詞だった。

良き音楽がある世界は、素晴らしい。
ただし、月に消えられるのも、恋人にさられるのも困る。
犬に笑われるのはかまわないが。


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